人気ブログランキング | 話題のタグを見る

TAKoOME 言葉足らずBKK

婆ちゃんの思い出


婆ちゃんの思い出_c0162147_133648.jpg
婆ちゃんの帯、何か作ろうと思てます。

私の婆ちゃんはず~っと昔に亡くなってるけど、未だに声が聞こえてくる。

「あ~エゾ!、そんなこと止めときなぃ・・・・」
(このエゾの語源はあの蝦夷やと思う。当時は蝦夷は遠くて大変だ!なんだろう、きっと)

婆ちゃんは滋賀県出身で爺ちゃんと一緒になって名古屋へ、それが長かったみたい。(爺ちゃんは私が生まれるず~っと前になくなってる)
母は名古屋と滋賀県で育ったらしい。 だから、お雑煮は関西の味噌仕立てと違う。お澄ましや、
私もお澄ましのお雑煮でないと年が明けない。

それに不服なのは旦那、こっちは味噌仕立て、私が作らんもんやから、彼はいつまでたっても「年が明けない」
子供と言えば、勿論、お澄ましでないと派、そら、私が育ててますから・・・・

これが、バンコクに来てても一緒やから、私の婆ちゃんの頃から続いてる拘りなんかなぁ・・・・・

--婆ちゃん-- 
島村 せい
(多分明治9年(1876)~昭和49年(1974)98歳で亡くなってると思う。
大隅家の長女で箱入り娘で育った。
兄さんの一人はフランスへ絵の勉強に、遊学ってやつですか・・・
「お布団を直してくれ」と言ってボロを送ってきたことを楽しそうに話してったっけ、帰国後、評論家になって東京は目黒に住んでいた。
晩年、残された奥さん(母よりかなり年上)子供がなく私を養女にという話も・・・あった。
この叔父さん、「夏目漱石」とも交友があったらしい。
もう一人のお兄さん、南洋(マレーシア)にゴム園を持ち、戦前までは大金持ちだったそうな、
勿論、虎刈りなんかもやってて、こんな敷物もいくつも・・・・そこには英国へ留学までした娘さんがいて、彼女は母の従妹、長いこと長崎に住んでて、あの時に被爆したはる。
長崎のおばさん・・・マッカーサーが九州へ来たときの通訳をやったとか・・・・
いろんな話を聞かせてくれたけど、身内の愚痴も多かったなぁ。
バンコクへ来る前に子供を連れて遊びに行ったけど、元気にしてはるかなぁ?

母がよく話していたのは、「ダイヤモンドが散りばめてあった猟銃」叔父さんは、肌身離さず持っていたとか・・・・
「大きなグレートデンのデン」「大きなシャムネコのドン」
ある時、この子等が田舎に大きな木箱に入れられて送られてきたそうな・・・
 誰も怖がって預かれなくって、送り返したって聞いていた。
小さいながら「凄い贈り物をみすみす送り返すなんて・・・・」思ったもんやった。
他、姉妹がいたけど、その話はあんまり聞いていない。

婆ちゃんはこの時代にしては遅く25歳だったか27歳だったか、そこいらへんで結婚。爺ちゃんは警察署長やったそうな・・・・・2男2女に恵まれる。

荒行の火渡りをやったり、刀の刃の上に座ったりしてたみたい。
また、居合い、勿論、嗜みの長刀は師範やったて!
泥棒の拷問(皮の紐でくくり水をかけで自白させた)
まるで時代劇そのものの生き様。
こんな武勇談を聞いてたけど、私の知ってる婆ちゃんは、実に穏やかな人やった。

私の知っている、多分最後の武勇談は、隣の「かおりちゃん」が井戸へ落ちたときに、婆ちゃんが井戸へ入って助けた。
その時でも、婆ちゃんは70歳は過ぎてたなぁ。
温和な顔してたけど、気丈な・・・・・気ぃ、きつかったんやなぁ、
その婆ちゃんも私等と奈良に住んでたんやけど、あまりの寒さに逃げ出した。で、淡路島に居てた次女の家に移って行った。
引き際も良かったよ・・・・。

「婆ちゃん、何縫うてるん?」

「おしめやで・・・」

「何で?」

「もぉ、そろそろやからなぁ、」

それから1週間、婆ちゃんはご飯を・・・食べなくなった。そして寝込んでしまった。
ある日、何故かキリスト教の牧師さんを呼んでくれと、
婆ちゃんは「洗礼」を受けた。次の日、本当に綺麗に行ってしもた。

あっぱれな婆さんやった。

婆ちゃんの思い出は、到底書きつくすことは出来へんけど、幾つかの武勇談は子供等の心に残ってるやろぅ、

「会いたかったなぁ~、曾婆さんになるんやなぁ・・・・」

そうやねぇ、もぉ、誰も残ってないねぇ~、
今度、写真でも探してみよ!
(持ってきてるんよ、バンコクに)
by tko_turezure | 2006-09-25 01:01 | 日本の○○